台湾に根を下ろした媽祖信仰
台湾は移民社会である。初期には中国大陸の泉州と璋州からの移住者が多かったが、出身地の違いから両者による資源の争奪が激しく、百年にわたって紛争が絶えなかった。1860年以降、武装しての戦いはようやく収まり、移住者たちはそれぞれの土地に根を下ろし始めた。村に共通の信仰の場である廟を建てる時、朝廷が推奨する媽祖を祀る地域が多かった。清華大学人類学研究所(大学院)の呂玫鍰准教授によると、これがエスニックや出身地を越えて、漢人移住者の間で媽祖が主たる信仰対象となった要因だとという。
媽祖には「天妃」「聖妃」「天后」などの朝廷から与えられた尊称がある他、台湾では親しみを込めて「媽祖婆」「婆啊」「姑婆」「娘媽」などとも呼ばれる。中央研究院民俗学研究所の兼任研究員·林美容は、これら親族を呼ぶような名称は、媽祖に対する台湾人の親しみを示していると説明する。家族や親戚の年配者のように、どんなことも相談しお願いできる存在なのである。
各地で異なる媽祖婆
長年にわたって媽祖信仰を研究している呂玫鍰は、昨今盛んな「媽祖の巡行」についてこう語る。「進香」と「遶境(巡行)」は、伝統宗教において大きく異なる意義を持つ。かつて「進香」というのは、信者が地元の廟に随行して、祖廟やより歴史の長い廟に参拝するという、廟と廟の上下関係を示すものだった。「遶境」というのは神が地域を見回る行事で、地域を浄化し信者を守るという意味が込められている。しかし今日は、進香と遶境の意味が混同し、廟の上下関係は強調されず、互いを参拝する平等な交流となっている。
呂玫鍰は、大甲媽祖と白沙屯媽祖の進香には異なるスタイルがあるという。台中の大甲鎮瀾宮は台湾の媽祖信仰を代表する廟の一つで、年に一度の巡行と進香の活動では、大甲を出発してから9日をかけて台中、彰化、雲林、嘉義の4県を巡るというものだ。その距離は300キロに達し、嘉義の新港奉天宮に到着すると、新港の媽祖とともに誕生日を祝うのである。
「大甲媽祖の巡行の隊列では、報馬仔、頭旗、頭灯、三仙旗、開路鼓、太鼓陣などが先頭に立ちます。中間には繍旗隊、哨角隊、三十六執士団、福徳弥勒団、福徳団、太子団、神童団、荘儀団などの陣頭があり、その後に媽祖の神輿が続きます。清代の服を来た人々が交代で神輿を担ぎ、前吹、涼傘、令旗、日月傘などが神輿を前後から守ります。この隊列にはそれぞれ象徴的な意味があり、この女神の恩恵の深さと隊列の厳かさや華やかさを示しています」と呂玫鍰は言う。
一方、苗栗県通宵の白沙屯拱天宮は集落の廟で、信者にとっては非常に親しみがあり、苦しみから救ってくれる慈悲深い神だ。毎年、白沙屯媽祖は400キロほど離れた北港の朝天宮まで徒歩で参拝する。その巡行には定まったルートはなく、神輿が進む方向や、止まる場所はすべて媽祖の御指示次第である。ルートが決まっていないことから、余所の土地の信者との交流の機会も増え、「媽祖様が外庄を興す」と言われる。近年、白沙屯媽祖の神輿は市場や学校、町役場や病院などにも自ら入っていくなど、民生に関わる場所を練り歩き、それぞれの地域の住民と交流することから、ますます親しみが増している。
「基本的に、進香活動は神の名の下に自分の土地を離れ、余所の土地の宗教や政治、経済、住民などの各種リソースとのつながりを持ち、互いの関係を強化するものです」と呂玫鍰は言う。言い換えれば、進香は移動することで廟や神々の交流を深め、神と神、人と神とのさまざまな儀式を通して地域を超えた交流をもたらすのである。
写真は1980年、北港朝天宮の媽祖の生誕日の巡行の様子。(外交部資料)