新旧の政権交代に当り、李登輝氏の総統としての12年間をどう評価するかがマスコミで大いに議論された。山水民意研究公司が今年5月に行なった世論調査によると、台湾の人々の李登輝氏に対する評価は、おおむね満足できる67点であった。中でも「台湾の民主改革を推進した」という項目で最高得点の73点を取っており、一方「黒金(暴力組織と金権)の改革」という項目での得点が最も低く、48点にとどまった。有力紙、聯合報が同じく5月に行なった世論調査によると、74パーセントの国民が、李登輝氏の12年間を通しての功績に満足しているが、李登輝氏の最近の言行に満足している人はやや少なく、61パーセントにとどまっている。
1988年1月13日、ストロングマンだった蒋経国氏が突然逝去し、当時副総統を務めていた李登輝氏が総統の重責を担うことになった。当時の中華民国の状況は、良い面を見ると、中小企業の輸出が急速に伸び、すでに台湾経済の奇蹟が実現していた。当時の台湾は経済的活力が旺盛で、良好な教育を受けた勤勉な労働力が豊富にあり、ハイテク技術を集めたサイエンス・パークの雛形も完成していた。これらの条件が、李登輝時代における豊富な基礎となった。また蒋経国総統は晩年、中国大陸への里帰りを自由化し、戒厳令の解除を宣言し、新聞発行を自由化し、さらに野党の結成を黙認しており、政治的な民主化への扉はすでに開かれていた。
しかし、当時の中華民国は長期にわたる権威統治の下で、人々の言論の自由、出版の自由、結社の自由などは保障されておらず、また人身の安全も十分には保障されていなかった。イデオロギーの面では、大中国思想と反共が強調され、台湾文化は重んじられず、台湾としての主体意識もまだ明らかではなかった。さらに、政治面や文化面における資源の分配は不公平で、台湾の基礎建設においても「心に大陸を思う」という考えから、なかなか進展していなかった。都市部の新交通システムの建設の遅れも、そうした例の一つである。
しかし今日はそうではない。多くの学者が均しく認めるのは、李登輝総統の12年間の最大の貢献は、台湾の民主化を達成したという点だ。国会の全面改選が行なわれ、総統が直接選挙で選ばれるようになり、政党政治の構造が確立し、軍隊は国家のもとのなって中立を厳守するようになり、また言論や集会の自由などの基本的人権が保障されるようになった。人々は政治的弾圧や高圧的な権威政治から抜け出すことができたのである。
1991年「動員戡乱時期臨時条項」が廃止され、中華民国は再び憲政体制に戻った。それ以来、海外に逃れていた人々の「政治ブラックリスト」は全面的に廃止され、「政治犯」という言葉も過去のものとなった。昨年12月には、緑島に「人権記念碑」が建てられ、今年の総統選挙では、ついに中国の歴史上希有な政権の平和的移行が実現した。これら「静かな革命」の実現こそ、李登輝氏が最も誇りとする功績である。
静かな革命が、旧時代の一党支配の権威体制を打ち破ったという功績は疑うべくもない。しかし、さらに進んで見ていくと、台湾は民主政治の形式は備えたものの、まだ良好な法治制度と市民社会の規範は確立していない。官僚の腐敗はよく耳にするし、国民の政治的素養も十分ではない。さらに黒金が横行し、司法の威信も十分ではなく、公権力も十分に機能していない。「質的に優れた民主主義」までには、まだ大きな距離があると言えるだろう。
こうした民主化の他に、李登輝氏が自らの功績として誇りとしているが、一方、各界からの評価が両極端に分かれるのは「憲政改革」である。90年に「国是会議」が開かれてから今日までの10年間に、国民大会は6度にわたって憲法を改正してきた。これらの改正によって、中華民国憲法はしだいに台湾本土の需要にかなうようになってきたが、総統の直接選挙制度を推進したことによって、それまでは内閣制に近かった憲政体制が、二首長制(総統と行政院長の二首長)へと変り、総統の権能が大きく拡大され、それを監督する機能が減少したのである。この二首長制をどのように運営していくかは、今の陳水扁政府にとっても非常に難しい課題の一つとなっている。憲法改正を続けてきた国民大会は、今年4月に非常設化され、この「憲法改正の怪獣」は消失した。しかし、議会の一方である国民大会による均衡の機能が失われ、今後の議会は立法院のみとなるため、これがさらに混乱を生じる引き金とならないかどうか、国民は不安を抱いている。
李登輝氏の「台湾化」政策も、評価が両極端に分かれる争点だ。この12年の間に、台湾は「中華民国の一省」から、しだいに「台湾の中華民国」へと変り、中華民国の国号や、三民主義の国歌、青天白日旗なども、ほとんど見られなくなった。これに代って新しい主流の価値観となったのが「新台湾人」や「台湾優先論」である。
「新台湾人」という概念は、台湾の各民族や出身地を異にする人々を一体化させ、台湾の運命共同体を形成するもので、また「台湾優先」は、台湾島内に残る大中国思想と対岸の中共の圧力に対抗するためのものだ。これは、台湾の人口の7割以上を占める本省籍の人々にとっては当たり前のことであり、また台湾と大陸が実質的には100年にわたって分離してきたという政治的現実から見れば、もともと当然のことである。李登輝氏は94年に日本の作家、司馬遼太郎氏のインタビューを受けた際、「国民党は外来政権である」「台湾人に生れた悲哀」など、心の奥底にある気持ちを語った。
しかし残念なことに、李登輝氏が「台湾化」と「台湾優先」を徹底させ、主権国家として台湾が国際舞台へ出て行こうと努力すればするほど、海峡両岸の溝はしだいに深まって行った。近年は、経済面で「戒急用忍」として対大陸投資抑制策を強力に実施し、政治的には「二国論」を打ち出したが、これによって両岸間では論争が絶えず、台湾海峡の平和に暗い影を落としてきた。言い換えれば、李登輝氏の「台湾化」は「非中国化」と表裏一体をなすもので、一方では台湾人民の自信と尊厳を高めたが、一方では統一か独立かの論争が絶えず、台湾人民の国家アイデンティティも混乱し、両岸関係はこれまでにないほど緊張を増したのである。さらには、今回の総統就任演説において、陳水扁総統が「台湾は立ち上がった…このことは国家の尊厳を表し…」と語ったとたん、台湾の株価は急激に400ポイントも下落し、マスコミは、陳総統が就任演説で「中華民国」と言ったのは9回のみ、「台湾」は43回も言ったなどと大々的に報じた。
すでに台湾化が深く進んでいる中で、なぜ「台湾」という言葉を少し多く使っただけでパニックが起るのだろうか。これこそが「台湾優先論」の盲点である。両岸は政治的には決裂し、戦争の危機さえ迫っているが、一方の民間では、両岸間の通商、漁業、結婚などが盛んで、学術、文化、宗教、さらには映画、旅行などの交流もすでに分ち難いところまで発展している。イデオロギー的には中国大陸を排斥し、拒んでいても、現実の生活における交流は絶えず続いているため、このような矛盾に対して、一般の人々も何に従うべきか、判断に困っているのである。
内政面を見ると、李登輝時代、台湾の民主化と本土化という開放的な雰囲気があり、しだいに社会の多元化と国際化が進んできた。中でも教育制度の多様化の成果は顕著で、半世紀近くにわたって教育の思考方法に深い影響を及ぼしてきた統一入試が近々廃止されることになった。また女性、児童、労働者、環境保護などの社会運動のテーマも盛んに議論されるようになった。多元社会の実現は、戒厳令が解除された後の大きな出来事で、かつて多くの人が、これによって市民社会の基礎が築かれ、自主的な社会運動団体が、政府と企業に続く第三の勢力となることを願っていた。しかし、社会運動は一時的に盛り上がった後、しだいに勢いを失っていき、その後の台湾では、反省や均衡を求める声がしだいに聞かれなくなった。
李登輝氏の愛憎の明確な、強い指導スタイルも、これまでたびたび議論の的となった。長年にわたる党内政争と党内粛清により、国民党内部はすでにばらばらに分裂し、連戦氏と宋楚瑜氏の「兄弟の争い」が今回の総統選挙での敗戦に直接つながった。そして惨敗した国民党が立ち直ろうとしている今、この百年の老舗には、上におもねりへつらう者があふれ、才知と徳のある者がわずかしかいないことが明らかになった。専門性が軽視され、是非が曖昧な状態は、李登輝氏の執政が残した最も深刻な後遺症の一つと言えるだろう。
振り返ると、李登輝氏の台湾への貢献こそ、批判される点でもあるという皮肉に気付かされる。李登輝氏は台湾への大いなる愛をもって、一人で各派の保守反対勢力と対抗し、過去から続くさまざまな束縛を打破し、台湾を12年前には想像もできなかった新たな境地へと前進させた。しかし、旧時代の足枷はなくなったものの、新時代もいばらの道が続いている。新政府は発足直後から、憲政体制、黒金、財政赤字、民生問題、社会福祉など数多くの困難な課題に直面しなければならないのである。今後「李登輝路線」の、どの部分が引き継がれ、どの部分を調整しなければならないのだろか。今後は新政府の知恵と判断を見守っていかなければならない。