台湾が日本に統治されていた時期、金門からは多くの人が商売のために南洋へ渡り、財を成すと故郷に錦を飾り、洋館を建てた。統計によると、清朝末期から民国初期に華僑の資金で建てられた洋館は161棟に上る。歳月は流れ、残っている洋館の多くは老朽化が進んでいるが、この「得月楼」は金門県が管理修繕しているため、かつての華やかさを留めている。
1949年に国民政府が台湾へ移転すると、金門島は大きく様変わりし、堅固な軍事要塞と化した。大砲、防御壁、対岸へのプロパガンダ放送、大規模な地下坑道などが大きな特色となった。
八二三砲戦にさらされ、小さな金門島に100万発近い砲弾が撃ち込まれ、多くの民家が破壊された。当時の戦争の痕跡が今も建築物に残っている。
21世紀に入ると軍事的緊張は緩和してトーチカはしだいに無用となり、代って新しいタイプの建築物や海辺のカフェが観光客の新たな目的地となった。小金門との間を結ぶ金門大橋の建設が急ピッチで進む中、対岸のアモイを望み、数百年の歴史を持つ金門では、建物のひとつひとつがその物語を語りかけてくる。