韓湘寧『今日開幕』『跑』
アーティストの韓湘寧は、「五月画会」のメンバーだったが、映画をやることに戸惑いはなかった。媒体や道具の境界や制限を越えることこそ、彼の創作の原動力だったからだ。油絵、ローラー、エアブラシを映像と組み合わせ、斬新な映像を生み出した。
韓湘寧にとって芸術とは、生活において感じた美を記録したものだ。そして彼の自由な思想の多くは、当時に得たものだという。「60年代の多くを台湾で過ごせて幸運でした。台湾でちょうどモダニズムが芽生えた頃でしたから」文学では『現代文学』、映像では『劇場』、絵画では「五月画会」がそれを実践した。彼の最初のカメラは、1964年に東京国際版画ビエンナーレに参加した際に日本で見つけた8ミリで、友達に頼んで台湾に持って来てもらった。
当時、彼はまだ広告会社でデザインを担当していた。「映画の冒頭部を考えていた頃、ちょうど仕事の写真植字で『今日開幕』という字に出会ったのです」その字を撮影したものが『今日開幕』(1965年)の冒頭に用いられた。
韓湘寧にとって創作はいつも即興的で自然なものだった。ある日、野柳の海岸で、波に打ち寄せられた首のないマネキンを見つけ、撮影した。波間に見え隠れする人形の映像を、女性の肉体に対する欲望が波に洗われていると見るのもよし、単純に人形に打ち寄せる波の力や美と捉えるのもよし、いずれにせよ韓湘寧にとっては、生活の「美」の記録にほかならなかった。
『跑』(1966年)は、韓湘寧の友人であるアーティストの席徳進がアメリカから帰国したばかりの頃で、「明日撮影の予定があるから朝6時に敦化南路と仁愛路のロータリー交差点に来てくれ、と彼に言ったのです。当時あそこにはモダンな建物がいくつかあったので」韓湘寧はオート三輪を借りてフィルムを数本準備、当日、席徳進にはロータリーを走ってもらい、その姿をオート三輪で追って撮影した。やがて通勤ラッシュが始まり、走る彼もバイクの波にのまれていく。ストライプの服を着ていた彼の姿が見え隠れし、おもしろい映像になった。
韓湘寧は、1967年にニューヨークへ行った際も、当時のソーホーの様子を撮影している。映像は、彼の創作において常に重要な位置を占めてきた。現在、80に手が届こうという年齢になった彼だが、今でも台北、ニューヨーク、雲南省大理のアトリエで、日の出と日没を撮影し続けている。新たな方法でアウトプットし、創作に生かそうと考えているのだ。
社会をとらえた『劉必稼』(陳耀圻1967年)、家庭の温かみを感じる『延』(荘霊1966年)、芸術的な『今日開幕』(韓湘寧1965年)と、題材や形式はそれぞれ異なるものの、いずれも時代によって育まれ、花開いた作品となっている。キュレーターの林木材の次の言葉の通りであろう。「ドキュメンタリー映画はシリアスすぎるとか、悲しい内容だと思っている人が多いですが、あまり偏見にとらわれないで、どの作品を見るか決めて、自分の直感で感じ取ってくれればいいと思います」
林木材は、「真実」にはさまざまな異なる角度があるが、ドキュメンタリー監督は自身が見た角度から真実に迫ろうとするものだと考える。
雑誌『劇場』は映画と演劇を扱った前衛的な出版物で、当時の西洋の演劇や映画の趨勢を紹介していた。
雑誌『劇場』は映画と演劇を扱った前衛的な出版物で、当時の西洋の演劇や映画の趨勢を紹介していた。
雑誌『劇場』の編集部員たち。邱剛健(一番左)、陳夏生(左から3人目)、黄華成(一番右)。邱剛健の家の前で。(荘霊提供)
荘霊の『延』『赤子』の二作品は、自分の家族を通して当時の若い世代の生活の実態と社会の変化を表現した作品だ。(林旻萱撮影)
韓湘寧は、「芸術」とはその人が生活において感じた美を記録するものだと考える。(林格立撮影)
『跑』では席徳進が着ている縦横ストライプの服装と、走る姿が面白いコントラストを成している。(韓湘寧提供)
国家電影センターの樹林の倉庫には、貴重な古いフィルムが多数収蔵されている。
韓湘寧の芸術創作において映像は重要な役割を果たしてきた。(韓湘寧提供)