「紀州」と日本的雰囲気のある名であるが、これは旧主人平松徳松が故郷を思って付けたという。平松家は日本政府の台湾統治に伴い、1897年に台湾にやってきて、西門町に料亭を開いた。その後、在留日本人が増えるにつれ、料亭は日増しに繁盛していき、平松徳松は現在の古亭同安街、当時の川端町に支店である紀州庵を開いた。
紀州庵はその後二回の改築を経て、二階建ての本館と離れ、庭園に別館を擁する高級料亭となった。新店渓に隣接する紀州庵は、水辺に親しめるように小橋を架けていて、お客は室内からそのまま河辺に出て、船に乗り景色を楽しむことができたという。当時としては、最高の行楽スポットであった。
多くの人が出入りした紀州庵だが、日本の敗戦後に経営者平松一族は日本に帰国し、国民党政府が建物を接収して政府の官僚宿舎としたために、人々の記憶は次第に薄れていった。しかも日本時代には行楽スポットだった新店渓の河辺も、1970年代には台北環状高速道路が開通して、その風貌を大きく変えていった。
地域の古木保存運動から過去の記憶へ
数世代が過ぎ、住民の記憶から消えていった紀州庵だが、2002年に近隣地域に古木保存運動が起り、そこから紀州庵の歴史が掘り起こされることとなった。
当時、台北市駐車場管理処では駐車場建設を予定していたが、古木保存運動を行う同安森林促進会が関心を持ち、古木保存を討論していた。その時、ゼミ実習の調査に訪れていた台湾大学城郷研究所の大学院生が、古い建物の歴史に気付いた。
調査を担当した台湾大学城郷研究所の学生林育群たちは、地域に住むお年寄りへの聞き取りから、この日本建築がかつて料亭であり、また王という作家が住んでいたことを知った。しかし、昔のことで、それ以上の詳細は分からなかった。
ところが小説好きの林育群が作家王文興の『15篇小説』の短編を読んでいて、「同安街は100世帯ほどの住む静かな通りで、わずかに湾曲しながら灰色の大河に突き当る」とある一節を発見した。作家本人に問い合せたところ、住人の聞き取りにあった王という作家は、まさに名作『家変』の著者王文興だったのである。
王文興は1946年に両親と共に台湾に渡り、27歳まで紀州庵の母屋に住んでいたという。青少年時代の大半を過ごしたこの場所での体験が、その後の小説のシーンに登場したのである。
この発見は調査チームを驚かせた。「紀州庵は単なる日本式家屋ではなく、多く人が関わる物語の場でした。それが市の古跡指定に重要な役割を果したのです」と、台湾文学基金会の企画担当邱怡瑄は言う。台湾大学城郷研究所ではさらに調査を進め、その歴史が明らかになっていった。
文学の故郷、作家の題材
歴史的背景や古木も見逃せないが、紀州庵を起点とした近隣の晋江街、廈門街、福州街は、実に台湾文学出版の故郷であった。
台北MRTの古亭駅を出て、同安街から新店渓方向に10分ほど歩くと、映画「牯嶺街少年殺人事件」の物語が起きた場所に至る。1950~70年代には、遠流、爾雅、九歌などの出版社3社が廈門街や汀洲路に散在していて、作家の林海音や余光中がここに居を構えていた。他にも藍星詩社、洪範書店に台湾新生報、文学雑誌、国語日報などがここにあった。
雑草に覆われ、敷地には違法建築が建てられていた紀州庵だが、地元の文化団体と台湾大学城郷研究所の調査により、各界から注目を集めるようになった。
紀州庵は2004年に台北市の市定古跡に指定され、文学史跡として再生した。文学の香りが立ち込める紀州庵は単なる古民家としてだけではなく、周辺の緑地と併せた台北の文学の森となったのである。
紀州庵近辺が文学の香り高いのも意外なことではない。地縁関係から言うと、台湾大学や師範大学に近いため、教授陣や学生が数多く居住していて、この一帯は静かで文化的雰囲気を残しているのである。
こういった紀州庵一帯の雰囲気から、多くの作家がここを題材に取り上げてきた。王文興はよく知られているが、牯嶺街に8年住んでいた新世代作家の王盛弘は「13都市」に紀州庵を取り上げているし、ここに生まれ育った房慧珍は作品に晋江街を書いている。
活性化と再生、城南に文芸の香りを
台北市南部に位置する紀州庵が台北市古跡に指定されると、その文学的雰囲気から文学の場としての発展の方向性が定まったのだが、実際にはなおも居住する住人がいた上に、三棟のうち本館と別館が1996年と98年に火災に遭ってしまった。僅かに残された離れも、大掛かりな修復が必要な状態だった。
2009年に紀州庵新館が竣工し、台湾文学発展基金会が運営のために入居し、台北城南の文学の場として生れ変わり、歴史の記憶と結びつけたイベントが開催されるようになり、次第に各界から関心が向けられるようになってきた。
台湾文学発展基金会の3年余りの運営を通じ、毎年各種の都市地図を発行してきた。2014年には城南生活地図として衣食住を念頭に、近辺のカフェやレストランが地図に記されたが、今年のテーマは文学に戻り、房慧珍の「河岸生活」や、ここに居を構えていた余光中の「もう一段の城南旧事」を取り上げて、一般向けに台湾文学を紹介する手がかりとしている。
紀州庵では文学を主軸に、平路、黄崇凱などの作家を招いて、水辺や生活の記憶をテーマに座談会を開いている。さらに紀州庵では、かつて「万新鉄道」が通っていた汀洲路まで範囲を広げて、鉄道と文学の二大テーマを取り上げて、より多くの文学歴史資料を発掘したいと考えている。
2014年から、周辺の南海芸廊や客家文化園区、奇異果文創などの大小の芸術文化団体と連携して城南の文化プラットフォーム構築を開始した。相互連携の力により、地域の芸術文化を育てていこうというのである。
一年半をかけて、2014年6月に7割近く木材を使用した紀州庵復元が完了した。この特別な機会を記念して、紀州庵ではドキュメンタリー作家の王明霞を招いて、その修復過程をドキュメンタリーとして記録することにした。
このドキュメンタリーでは、台湾に生まれ育った典型的「湾生」の平松家三代目の平松喜一郎が、半世紀ぶりに子供時代を過ごしたこの土地にやってきた。今年80歳余りの平松喜一郎とその家族はかつての紀州庵に再び帰ってきて、その窓や瓦を眺め、畳を歩いてみると、子供時代の記憶や客を迎える料亭の賑わいが、改めて脳裏に蘇ってきたようである。
古木保護運動から始まり、思いがけずも紀州庵の歴史が再び日の目を見ることになった。台湾近代百年の歴史を共に歩み、人々が様々な記憶を寄せてきた紀州庵は、文学や生活と人々の記憶を結び付け、これからも新店渓の河畔に新世紀における城南の記憶を紡いでいくことだろう。
新店渓の岸辺、鬱蒼とした古木に囲まれた紀州庵は百年近くにわたって台湾の歴史を見守ってきた。
新店渓の岸辺、鬱蒼とした古木に囲まれた紀州庵は百年近くにわたって台湾の歴史を見守ってきた。
地域住民と台湾大学城郷研究所の調査を経て、紀州庵は日本時代、2階建てで川に小橋のかかる高級料亭だったことがわかった。写真は修復が完了した紀州庵。
地域住民と台湾大学城郷研究所の調査を経て、紀州庵は日本時代、2階建てで川に小橋のかかる高級料亭だったことがわかった。
地域住民と台湾大学城郷研究所の調査を経て、紀州庵は日本時代、2階建てで川に小橋のかかる高級料亭だったことがわかった。下の写真は当時の経営者・平松徳松(後列左から5人目)と家族の記念写真。(紀州庵提供)
2014年に紀州庵の修復が終わると、文学と地域住民の暮らしの記憶などを結びつけたさまざまなイベントが行われるようになり、ここは台北城南の新文学基地となった。写真は2015年7月末に、子供たちが紀州庵で行った成果発表会の様子。
紀州庵が発起し、近隣の文化団体を集めて「城南聯線」が結成されて同安街に文学や芸術の香りが漂い始めた。
写真は2012年に紀州庵が行なった野外コンサート。(紀州庵提供)