畳み重なる枡形の上に屋根の軒が反り返った線を見せ、朱塗の柱が支える天井には金襴の龍や鳳凰が描かれている宮殿様式の建築こそ、誰もがよく知っている中国式の建物であろう。国の内外を問わず、台北の円山飯店や故宮博物院、歴史博物館、中山楼、海外であれば中華街の入口に立つ鳥居のような牌楼や華やかな中華レストランがそうである。40年余りの歴史をもつ中華宮殿装飾工程公司は、一貫して中国式建築の装飾を手がけ、その顧客は国内から海外まで、中国人のいる場所ならどこにでも散らばっている。
1949年、山東大学経済学科を卒業した宋膺さんは、簡単な手荷物を持っただけで、山東大学の学生たちと共に台湾に移ってきた。そして国立台北大学の前身である行政専門学校で、教壇に経つことになった。書画に秀でていた上に、京劇にも造詣が深く、しかも胡弓も弾ける宋膺さんは、経済学を教えていたものの、その本棚には多くの伝統建築や中国式図案、絵画などの書物が並んでいた。
1960年代、国民党政府は中華文化復興の運動を呼びかけ、多くの公共施設が北方の華麗で重厚な中国宮殿様式で建てられるようになった。10月10日の国慶節や台湾の祖国復帰の記念日である光復節、憲法記念日などになると、官公庁の正門や主要道路には中国式の牌楼が建ち並ぶ。装飾絵画に興味を持っていた宋膺さんは、何人かの弟子を集めて牌楼建設のビジネスを始めた。当時の円山飯店の山沿い部分、中泰賓館、歴史博物館、さらには台南孔子廟などの装飾は、すべてその傑作である。
台湾の民間の寺や廟の装飾は、花鳥や民間伝説を主とした南方の絵画で飾られるが、宋膺さんの装飾は龍と鳳凰を主とし、これに如意、吉祥卍などの文様の装飾図案を加えた北方様式である。その中でも一番重要でまた難しい部分は、図案を繊細でかつ立体的に見せる「瀝粉」の技術である。
中学卒業後15歳で中国宮殿装飾工程公司に職人見習で入社し、30年余りの経験を持つベテラン職人雷永順さんによると、高い天井に描かれる宮殿様式の装飾は、45センチ四方の木の板を組み合せて作る。この一枚一枚の木の板は、まず石灰に豚の血を加えて下地を作り、隙間を埋める。下地ができてから、平らになった木の板に、無数の小さな穴をあけた設計図を被せ、上から赤い粉をかける。粉が小さな穴に入り込んで、木の板に素早く設計図の下書が写るのである。
この次が「瀝粉」である。煮溶かした膠に石灰を加えてペースト状のものを作り、これを自転車の内タイヤのゴムチューブに詰める。その先端には円錐状の漏斗をつける。必要な線の太さに応じて、漏斗には大小の穴が開けられている。こうしてウェディング・ケーキの装飾をするように、石灰のペーストを押出しながら、立体的な龍や鳳凰の図案を描き出していくのである。この作業が終ると、色づけとなる。図案の色が余りに派手にならないように、韻法の技法が用いられる。これは色と色との間にごく細い白い線を加えて、赤、黄色、青、緑、金などの強烈な原色が相互になじみ合うようにするもので、また退暈とも言う。
この小さな木の板に、これほど複雑で手の込んだ図案が描き込まれるが、それも職人の腕にかかっている。複雑と言うばかりではない。一、二メートルの長さに及ぶ装飾梁は、さらに職人の技術が要求される。「毛筆で字を書くのと同じように、細く長い石灰の線が流れるように、一気呵成に描かれなければいけません。職人の線がけの腕が試されます」と雷永順さんは言う。もう亡くなった大旦那の宋膺さんは、その当時、木の板の上にどれだけ速くまっすぐに線を引けるか、弟子としばしば競い合ったと言う。
1970年代、台湾の経済がテークオフし、多くのメーカーが国外の大規模な見本市に参加するようになった。その見本市に設けられた多くの展示の中で、いかに中国的特色を出すかと言うと、宮殿様式の装飾が一番だったのだそうである。それまでは装飾を描くことを主としていた中国宮殿装飾工程公司だったが、このころから木工、彫刻、瀝粉、ペンキ塗装の四部門を擁する会社となった。1970年代に中国宮殿装飾工程公司は世界規模の見本市に二回参加し、二回とも最優秀設計賞を中国館にもたらした。
宋膺さんには思いがけないことに、国際見本市の中国館の設計を受けたことから、仕事の重点を海外に移すことになった。見本市に参加し、中国館に強い印象を受けた会社には、外国ばかりではなく海外の華僑も多かったのである。特にレストランを経営するオーナーたちは、中国館の宮殿のような様式を見て、これこそ、自分たちが必要とする中国的雰囲気だと思った。
そこでドイツ、フランス、イギリス、オランダ、ルクセンブルグ、イタリア、スペイン、チェコ、ポーランド、そして中東のシリア、レバノン、アラブ首長国連邦、さらにはカナダ、アメリカからパナマ、コロンビア、そして横浜の中華街の半分を占める店まで、柱や梁に彫刻や絵画装飾が施され、竜や鳳凰の宮殿様式のインテリアであれば、ご主人に宋さんの会社に頼んだのかと聞いてみてまず間違いはない。「わが社ではほぼ27カ国、300余りの中華レストランのインテリアを受け持ちました」と話すのは、中国宮殿装飾工程公司の現任社長で、国内連絡業務を担当する宋家の長男の嫁、馮小華さんである。
外国にある中華レストランのお客と言うと、故郷の味を思う華僑もいるが主に現地の人々であろう。欧米の人々は食事の雰囲気を重んじるので、その地の中華レストランも特に中国風を強く打ち出している。屋根には朱の枡形に緑の瓦、そして入口には石の獅子が一対出迎え、ホールには龍を彫った皇帝の椅子と、大きな太平象のお着物が並べられる。お客は清朝の宮廷の衣装で記念撮影もできる。中に入ると銅製の宮殿風スタンドランプ、人の高さほどの金襴手の花瓶、木の透し彫りの間仕切りパネルが両側に並び迎えてくれる。突き当りにはお供え用の卓が設置され、福禄寿の三星の像が並べられている。足下の絨緞は五福捧寿のめでたい図案で、食卓は明朝様式の椅子に染付けの食器である。庭には奇石を並べた池があり、六角形の東屋がある中国風庭園となっている。目に入るもの、手にするものの全てが、宋家の中国宮殿装飾工程公司の製作で、台湾から遠くコンテナでここまで運ばれてきたものである。
台北の士林にある工場では、彫刻部門の職人が機械を使って、透かし彫りの装飾図案を切り出しているところである。別の職人さんは数十本の彫刻刀を並べて、生きているかのようなカササギを彫り出しているし、工作室の壁には数百種に上る吉祥図案の型がずらっとかけられている。木工区の職人さんは、明朝式の戸棚やセパレーションのパネルなど大型の家具を作る。木工と彫刻が終ると、塗装部門に回されて色がつけられる。長年繰り返し使われてきたために、作業台には厚く塗料がこびりついてしまった。「瀝粉」の職人さんたちは、絵画の図案が昔より簡単になって腕の振いどころが無くなり、また新しいインテリアの流行にあわせて、今ではその腕をガラス絵に発揮するようになった。
これらの材料は、すべて中国宮殿装飾工程公司の台湾のデザイナーたちが海外まで出向いて、現場で測量してきた大きさに合わせて製作される。東屋や屋根、アーチ門などは組立て式に作られコンテナの空間をとらないようにする。外国で電気水道、空調設備などの工事が終ったところで、台湾で製造されたこれらのパーツが分類して包装され、コンテナで送られる。海外の現場では積込み伝票により必要なものを取りだし、パーツ毎に施工の位置に置いていく。設計図を参照すれば、外国の職人さんでも短い工期で組立を完了できるようになっているのである。
しかし、台湾で設計製作されたものが海を渡ると、気候や環境の激変に適応できないことがよくある。「木で彫ったものは困ります。木は生きていますから」と、二代目の宋文尭さんは言う。切り出してきたばかりの木材は、湿気に合うと膨張し、乾くと収縮する。数年間陰干にしてからやっと形が定まり、家具に使えるようになる。一旦、乾燥が終った木材であっても、北の寒い国に送られて、長時間ヒーターの熱気に当ると、そのほとんどが裂目を生じてしまう。そこで、ほぞとほぞ穴で組み合せていく大型の彫刻の窓枠や屏風、アーチ門などの木製部品は、接着剤や釘で止めることはできず、接続した部分には十分の遊びを残しておかなければならない。宋文尭さんが今も覚えている経験は、台湾で数百年にわたって使われている陶器の瓦を、ニューヨークのチャイナタウンの牌樓に使った時のことである。それが大雪の寒さに耐えられず、表面の釉薬が次々に剥がれて落ちてしまった。宋さんたちはわざわざニューヨークまで、修復に出向いたと言う。
台湾の人件費高騰につれ、それまでの複雑な装飾を施した天井板、透かし彫りのパネル、或いは木の一枚板の家具などは、それぞれ新しい材料に取って代られていった。「簡素化しないと生き残れないのです」と、宋さんは話す。中華レストランで人の字形に渡された梁の天井を見かけるが、中央に高く組まれた朱塗りの梁は実は高圧紙の筒でできている。軽くて安く丈夫な紙の筒に、まずガーゼの布を被せ、これに赤い塗料を塗ったものである。傍によって叩いてみなければ、紙でできているとは分からないだろう。複雑な構成の桝形の上に載っているのは、グラスファイバーの屋根で、巨大な重量を支え分散させる必要はなく、手間のかかるほぞとほぞ穴の接合も使われなくなった。
高さ6メートル余りの六角形の東屋も、美しいカーブを描く屋根は型抜きした6枚のグラスファイバー板を組み合せたものである。屋根を支える柱も鉄金具を取り付けたグラスファイバー製だが、中国式に外側に優雅に反った手すりは木製である。蘇州の名園網師園を模した東屋には、伝統的な様式とハイテクの技術が併存している。
「私たちが作るのはすべてコピーですが、古い様式で新しく作り真に迫ることを目指しています」と宋文尭さんは話す。宋さんが高く評価する中華料理のシェフは、エビのチリソースを作る時にいつも新鮮なトマトのみじん切りを少し加える。それと同じ理屈なので「細部をどう処理し、どんな材料を使って、質感を出すかがポイントです」と言う。今日では様々な部品、部分について新しい素材が出てきているが、手に触れたり近くで目にする部分について、宋さんは手仕事で作り、職人の腕が見て取れる木製の部品を使うことにしている。
それに外国のレストランでは、以前のような満艦飾の中国宮殿様式のインテリアは好まれなくなり、シンプルで落ち着いた庭園様式が流行る傾向である。「名刺の中国宮殿を見て、うちは廟のような派手な装飾は要らないと言うオーナーもいます」と宋さんは言う。花菱や花鳥の屏風など、中国的な要素を少し加えれば、シンプルで優雅な空間が出現する。こんな設計なら2、3万米ドルで、心地よい中国風のレストランが出来上がるのである。派手なチャイナドレスのウェイトレス、龍や獅子が舞うような中国趣味は、すでにヨーロッパのお客の好みに合わなくなってきたようだ。
すでに3軒のレストランの内装を宋さんに任せたあるオーナーは、最近ニースに大規模なレストランを開いた。その改装も宋さんの手になるもので、元は倉庫のような売り場と駐車場だったところが、緑豊かな中国風庭園に生まれ変わったのである。石組みの山水から滝が流れ落ち、池にはあでやかな錦鯉が泳ぐ。曲がりくねった石橋を渡りながら、東屋からの眺めも楽しめる。この中国風庭園はすでに現地の観光スポットに取り上げられ、観光客の写真撮影に便利なように、現地の自治体では付近に無料駐車場設置を計画しているそうである。
華麗な宮殿様式から、シンプルで現代的なものまで、300軒余りの中華レストランの内装を扱ってきた宋文尭さんは、「本当によいレストランとは一種の思想を表現できなければなりません」と話す。どの料理にどの酒を合わせ、食後にはどんなデザートを出すのか、食器はどうするのか、どれ一つ取っても疎かにはできない。こういったシェフクラスのレストランには、それなりの設計理念が必要なのである。例えばと、宋さんは例を挙げる。かつてオランダで、錦鯉を飼っている広東人オーナーのレストランを設計したことがある。毎年コンテストに優勝している錦鯉のために、入り口に小さな木の橋を架けることにした。お客はこの橋を渡る時に、錦鯉の泳ぐ姿を楽しむことができる。レストランではパーティションの飾りガラスの模様はすべて錦鯉、中央には骨董クラスの大きな戸棚を置き、そこにコンテストの優勝カップを並べた。オーナーの趣味と個性を、こうして表現したのである。
1970年代初頭、アメリカのニクソン大統領が中国を訪問し、世界中に中国ブームが巻き起こり、これにつれて世界各地の中華レストランも賑いを見せた。ここ数年は、中国大陸の市場開放もあって、中国は一つの流行になってきて、中華レストランを訪れる若い人たちも少なくない。そこで若い人の好みに合わせようと、宋文尭さんはこれまでにもまして内装設計において複雑な宮殿様式を簡素化している。すっきりと明るい白い壁に赤いチェックのテーブルクロス、漢字をデザインした間仕切りパネル、黒いスチールパイプの明朝式椅子を組み合せ、モダンな若向きの中国風を演出する。
自分が設計した内装の中でも、パリのシャンゼリゼ近く、大使館が集まる地域にある「正陽大酒樓」が一番気に入っている。パリでも最高にエレガントな一帯で、中国南方の上流階級の雰囲気を外国人に味わってもらおうと、蘇州式の庭園のエッセンスを取り入れた。一歩足を踏み入れると、透かし彫りを施した飾り窓から光りが洩れる。高い天井の頂点には、繊細で華麗に彩られた装飾天井が、独特の華やかさを醸し出す。客席に入る前の廊下には、両側に3メートル近い長さの木彫の装飾パネルが飾られている。すべて手彫りのパネルの一つは百鳥朝鳳図、もう一つは清明上河図である。
室内の壁面は、すべて模様入りの緞子で覆われている。その文様の図案は、その昔ビクトリア女王に献上した中国服の生地と同じである。細部にわたるまで華麗に繊細にデザインされたこのレストランは、お客の賛嘆のため息を誘うと共に、宋さんにはアラブの王族との取引ももたらした。優雅なレストランの内装が上流社会の人々を引き付けたが、さらに意外なことに泥棒の注意も引いたと言う。入り口ホールの大きな骨董の棚には、外国人が好む20点余りの陶磁器が置かれていた。これは宋文尭さんが台湾で作らせたレプリカなのだが、それとは知らない泥棒は、本物の骨董品と思い込んだらしく、開店まもなくすべて盗まれてしまったそうである。
緞子を壁紙に使うのは、イギリスのブライトン宮殿を見て思いついたと言う。17、18世紀のヨーロッパには中国趣味が流行し、遥かな中国をヨーロッパ人は憧れを込めて想像した。イギリス南部の海岸地帯にあるブライトン宮殿は、18世紀末にイギリス国王ジョージ四世が建てた離宮である。
離宮のインテリアは、イギリスの中国使節団に随行した画家のスケッチを元にして作られ、バンケット・ホールの壁に貼られた中国の風俗画は、西とも東ともつかない奇妙な顔の皇帝や召し使いが描かれ、天井からは1トンの重さの龍のシャンデリアが下がっている。別の部屋でも、蓮の花のランプや赤い灯籠の下の中国人のお人形、壁一杯に飾られた染め付けの皿など、中国人にとってどこかで見たような、しかし奇妙で不思議な雰囲気である。
今日、世界の距離は縮まっている。海外における中国ブームは「ラスト・エンペラー」のロマンを残してはいるものの、以前のようなエキゾチックな奇想に満ちたものではなくなり、華麗な中国風の宮殿も王侯貴族だけの夢ではなくなった。華やかなでエレガントな中華レストランのおぼろなランタンの下で、花鳥の屏風の陰に染付けの皿を前にして、中華の美味を楽しみながら、中国の夢を実現できるのである。