劉興欽、1934年生れ、新竹県横山郷大山背の出身で、今も客家人特有の純朴で勤勉な性格を残している。劉興欽さんによると、この一生で一番懐かしいのは「阿欽(欽ちゃん)」の漫画に描いた時代、生活が苦しかった子供時代で、妹を負ぶい牛を引いて、何里もの道を学校に急いだ頃である。貧しく辛かった毎日は、彫りつけたように永遠に心の中に焼きついている。
その当時の状況を思い出して、台湾が祖国復帰したその年が一番苦しかったと劉さんは言う。前後2年は干害が続き、米がなくて野草の類を食べていた。その貧窮は『小さな村の物語』に生き生きと描かれている。また『阿欽の物語』も、多くの漫画ファンに感動の涙を絞らせたものだった。
「この漫画は私と放牛(放任主義の意と放牧をかけてある)校長の物語なのです。校長先生は私たちに勉強させようと牛の放牧を手伝ってくれたので、放牛校長と呼ばれていました」と、小学校時代の蔡苑清校長先生を尊敬をこめて語る。農作業が忙しい時期には、奥さんと二人の娘さんを連れて茶摘を手伝い、丸一日働いても何の報酬も受取らなかった。
劉興欽さんは子供の頃から頭がよくて、アイディア豊富だった。『阿欽の物語』には、校長先生が阿欽に厄介な問題の解決を頼む話が出てくる。例えば、隣あった二軒が日照りに水を争う時は、阿欽が簡単な構造の分水用の器具を作ってしまう。聡明な阿欽を校長先生は可愛がり家の困窮を助けてくれたし、認めてもらえた誇りが、劉興欽さんのその後の原動力となった。
多くの人が劉興欽さんの漫画をよく覚えているし、そこにもう一人の自分を見出した。自分の子供たちに見せるときには、台湾の歴史を振り返るような気がする。『阿三哥と大嬸婆の台北旅行』では、当時の台北駅の北口風景を見ることが出来る。片側には職業紹介所が一列に並び、背広でも着て通ろうものなら一群の人に取り囲まれ、旦那、求人ですかと尋ねられた。この漫画は劉さんの一番のお気に入り、阿三哥は自分の分身、大嬸婆は母親の分身で、親子二人のコミカルな会話が描かれているからである。
『阿三哥と大嬸婆の台北旅行』がどれほど売れたことか、ここ数年大人気の『ドラえもん』や『クレヨン新ちゃん』『ちび丸子ちゃん』などでさえ、及びもつかないほどである。
昔からの読者薛少奇さんは、子供の頃新聞を手にとって最初に見たのが劉興欽の漫画で、笑い転げたのだと言う。今もいくつかのシーンは目に浮ぶほど覚えている。
『阿三哥と大嬸婆の台北旅行』は日刊紙台湾日報の創刊のとき、劉興欽さん専用の欄を用意して掲載されたもので、その後の販売部数に大きな貢献をした。台湾日報はその後、劉興欽さんに記者証を発行し、どこにでも取材に行けるようにしてくれた。それからは台湾の名所旧跡が漫画のバックに登場するようになる。劉興欽さんは「毎日家にこもって漫画を書いているばかり、出かけることもないのだからと、お天道様が憐れんで遊びに行けるようにしてくれたのでしょう」と話す。
劉興欽さんは中学卒業後に台北師範専科学校芸術科に合格した。師範学校を受けたのは将来のためではなく、学費無料、寄宿舎に住めて食事もただだったからである。「私には遠大な理想などなく、友達は総統や医者、科学者になるといっていましたが、どれも気が進まなくて。中学を終えて進学しなければ豚屠殺の手伝いをさせられるので、それが嫌なばかりに進学すると言いました。それは構わないが、学費は出せないと父は言うのです。学費も生活費も出してくれないのですから、無料の師範学校に行くしかありませんでした」と劉さんは話す。
劉興欽さんがその後漫画の道を選んだのも、師範学校で学んだことと関係があるのかもしれない。成績が悪くて落第でもしたら、引張ってでも連れて帰ると父親に言い渡されていた。連れて帰らされて、烈日の下に蹲って休みもなく働かされてはたまらないと、必死になって勉強した。他の学生は一学期に20枚のデッサンを提出するだけなのに、劉さんは100枚も描いたのである。
劉興欽さんの同級生で、同じく後日著名な漫画家となった徐麒麟さんによると、自分はトップの成績で台北師範専科学校芸術科に合格したけれど、劉さんはトップで卒業したと言う。しかも、余り人に知られないエピソードを教えてくれた。その頃学校では午後の昼寝が決りだったが、劉さんは決して眠らず、毎日美術室でデッサンの練習をしていたという。それで成績がよかったのである。学期末になると、先生の一人がこんなに熱心な学生は始めてだと喜んで、プレゼントをくれた。徐さんの記憶にある劉興欽は、真面目で、やると決めたら最後までやりぬく人間であった。
小さい頃から漫画家になろうとは考えたこともなかったが、1955年の最初の漫画『尋仙記』は、自分でも笑うようなきっかけで描きはじめた。
当時、一般には「小人書」が流行していた。これは掌ほどの大きさの漫画で、内容は全てカンフーや神仙妖怪物語である。子供たちは夢中になり、中には物語の中の仙人にそのカンフーの技や、仙人になる修行を教えてもらおうと、家出してしまう子までいた。
その後、教育局は子供の漫画を禁止するように学校に注意してきた。この現象をずっと注目していた劉興欽さんは、ちょうど永楽小学校で教えていたが、親や先生が読書を勧めても言うことを聞かない子供たちが、わざわざ小遣銭をはたいても漫画の本を借りてくるのに気づいた。漫画は確かに魅力的だった。子供たちに悪い影響のある漫画を見せないために方法を考えてくれと校長先生が頼んできたとき、そんなに漫画を見たいというのなら、毒を以って毒を制する手もあると考えた。こうして子供に神仙妖怪漫画を見せないために描かれた漫画が『尋仙記』だったのである。
この漫画が出版されると、大ベストセラーになった。1955年当時、一ヵ月の給料が380台湾ドルだったのに、出版社は2000台湾ドルを払ってくれた。その頃は出版点数も少なかったこととて、ベストセラーの作者はあっという間に有名になり、多くの漫画出版社が執筆を依頼してきたと言う。一夜のうちに、無名の小学校教師であった劉興欽さんは、誰もが後を追いかける漫画家になったのである。漫画が金になることを知り、漫画家生涯が始った。こういった経緯は、すべて『阿欽の物語』に取り入れられている。
その後、ある漫画家が彼の生活が単調過ぎて、それではいいテーマで描けないと忠告した。もっとカフェやダンスホール、クラブにでも行って、インスピレーションを捉まえるべきだと言うのである。しかし、自分は田舎の田吾作だと思っている劉興欽さんは、そんな薄暗いところに行きたくないし、行こうともしなかった。
それでも人を引きつける漫画を描くには、自分の特色が必要だとは考えた。自分の特色は何だろうと思ったときひらめいたのが、一番どん臭くて馬鹿正直な一面である。これから阿三哥というキャラクターが生れた。さらには自分の母親をモデルに、もう一人のキャラクター大嬸婆を生み出したのである。
母は生れついての大声だったと、劉さんは言う。93歳になっても、若者より素早くしっかりと階段を上り、95歳で山歌を歌うと鐘のように響き、歌のチャンピオンにもなった。真直ぐな性格で、のんべんだらりと日を過す怠け者をひどく嫌い、地回りのような正義感もない人間を見ると、恐れもせずに大口を開け罵った。
はっきりと明快な二人のキャラクターが繰広げる笑い話に、読者は目を引きつけられた。町中到る所に二人のポスターが貼られ、劉さんは毎日編集者に追いかけられる。毎日、夜も日もなく漫画を書き続けても出版社の求めに応じきれず、もっと手が生えてくれればいいのにと思ったそうである。
劉興欽さんの漫画はここに、独特のスタイルを確立した。描くのは全て自分と周囲の人、人生それぞれの段階における笑いに満ちたエピソードである。処女作の「尋仙記」と、後の「機器人」には、生活に空想的色彩が加わったものだった。小さなお友達に大人気の「機器人」が、その後思いがけずも劉さんを発明家の道に歩ませることになった。
1970年代の初め、出版社の求めに応じて描いた「機器人」は評判となった。ところが、ある小さな読者が手紙を書いて「嘘吐き、ロボットなんてないよ。あるんだったら証明して見せて」と言うのである。劉さんは子供に馬鹿にされてはならないと、発明の世界にのめり込んでいった。最初に発明したのが「ロボット自習機」で、答えが正しいと拍手し、間違えると首を振るというものである。
コンピュータのなかった当時のことで、珍しい発明である。この発明はアメリカの玩具メーカーの目に止り、二年間特許権を貸出すことになって、毎月数万台湾ドルを稼ぎ出した。20数年前、この教育用玩具だけで劉さんは600万台湾ドルを手にしたのである。それからは発明に専念し、1978年には138件の特許を取得した。
その発明も色々である。今ではどの家にもあるお湯と水の出る蛇口、シャープペンシル、組合せの洗濯バサミなどだが、特許件数が一番多く、しかも一番富をもたらしてくれたのが教育玩具だった。子供たちが自分で色や形、動物などを選べる「智恵のビーズ」、自動車の運転を習える「小さな運転手」などである。
10年近い発明の経験、アイディアの捉まえ方、目標の設定、パートナーの選択や支えてくれた家族、時には騙されたり、挫折したりと言った様々を劉さんは漫画に記録し続けた。それが最後の漫画集「発明趣譚」である。これを描き終わると、自分に対しても支持してくれた社会に対しても責任を果したような気になり、そこで筆を折った。もっと違う何かを探してみたくなったからである。
どうしてそんなに頭がいいのか、発明できるのかとよく聞かれるが、劉さんに言わせれば、小さい頃からの環境に養われた習慣で、困れば手を考え、考えて何とかすると言うものである。例えば、電子音楽シューズを発明したことがある。電子関係は全くわからないので、まず絵を描いてみる。それから教えてもらった機能を描きこみ、それを基に誰かに作ってもらう。作っては試しているうちに、電子音楽シューズの出来あがりである。世界の発明家には、画家出身が一番多いのだそうである。正確なドラフトの図が書ければ、半分成功したも同じだからだと劉さんは言う。
現在はアメリカに住む劉興欽さんは、半年に一回台湾に戻り、アメリカでの研究の成果を幼児教育の先生に伝える。その一生でもっとも心残りなのは、校長先生が亡くなる前にデッサンを描いておかなかったことである。故郷にはいつも捨てきれぬ愛情を抱き、国を離れて長いのだが、郷愁は断ちがたい。故郷の方で必要があると言えば、どんなことでも全力を尽して応えようとする。
去年5月、新竹県横山郷では「内湾イメージ観光村」計画を推進し、劉興欽さんのユーモア溢れる楽しい漫画のキャラクターを、シンボルとして観光用の広告宣伝に使おうと考えた。これを知った劉さんは即座に同意し、自分の作り出した阿三哥や大嬸婆を無条件で故郷に提供したのである。このプロジェクトのために2回も台湾に戻り、スタッフと討論を繰返した。現在、これらの作業は最終段階に入り、今年3月には対外的に開放できるだろうということである。
横山郷の郷土史研究家彭瑞雲さんによると、横山郷には美しい風景の観光ポイントが少なくないが、文化的雰囲気にはやや劣っているという。劉興欽さんは横山郷に生まれ育ち、誰でも知っている漫画家で、郷土の誇りである。人気のあるその漫画のキャラクターを宣伝に使うことが出来れば、内湾イメージ観光村はより個性的な特色を打ち出せるだろう。
もう漫画は描かないし、発明研究も一段落してしまったが、劉さんは暇を持て余しているわけではない。数年前から水墨画に夢中になり、基礎から勉強し始めたのである。今更水墨画なんて遅すぎると言う人もいるが、劉さんは気にしない。
水墨画に描くのは、現在住んでいるアメリカの邸宅の前に広がる湖と山の美しい風景ではない。それは子供の時の記憶に残る台湾の田園風景で、脱穀したり、蓑笠を作ったり、丸太を転がす日常生活である。こういった絵は、全てが貴重な台湾の歴史を記録するものだと劉さんは言う。というのも、同じ世代の画家は普通よい家庭環境に育っていて、田舎の農家の仕事などほとんど知らないし、農民や職人は絵など描いたこともない。ただ劉さんだけは天の恵みか、貧しかった時代に農家に生れ、絵の才能を授けられたのである。これを無駄にしては天の恵みに申し訳ない。かつての農村の生活を絵に残し、いかに苦労して暮してきたのか台湾の次の世代に知らせなければならない。これらの絵が画集にまとめられれば、台湾の農村社会史の一ページを飾るものとなるだろう。
こういった使命感を抱いているために、すでに70歳近い高齢ながら、劉さんは今も壮健で元気がいい。ところが劉さん自身によると、少し前のある時期には、成功して裕福になり、やるべきことをやってしまい、人生に意味を感じなくなったことがあるという。毎日食べて寝るだけの豊かな暮しより、つぎはぎだらけの服を着て、草の汁や墨で絵を描いていた子供時代の方が楽しかったと思うと、生きる気力が無くなった。
幸いなことに、アメリカで医師となった敬虔なクリスチャンの長女が信仰を勧め、一昨年にはハワイの澄んだ青い海で洗礼を受けてクリスチャンになった。心の拠り所を得てから、子供時代の農村生活を描き始め、生活にも張合いが出てきたのである。
人生の旅という砂地において、他の人と同じ足跡を残したくはないし、自分と同じ足跡を見たくもないと言う。波が砂地を洗えば、全ては零に帰して初めからやり直せる。学ぶ気さえあれば、最初から学ぶのも構わない。
こういった闊達な人生観と、人に奉仕しようという志からか、ユーモアとアイディアに満ちた劉興欽さんは、私たちの記憶に残る正直で聡明な阿欽の面影そのままで、今も世界に温かい笑いを振り撒いているようである。
劉興欽さんは幼稚園の先生を対象に、子供に自分の手と頭を使って創作させる方法を指導している。
横山郷では劉興欽さんの生んだキャラクター、阿三哥と大婆を観光案内に使うことによって多くの観光客を呼び込もうとしている。
今は廃校になった母校、大山国民小学校を訪れた劉興欽さん。ここで劉さんは一生のうちで最も楽しい時代を過ごした。辺鄙な田舎の小学校が、誰もが知っている有名な漫画家を育てたわけだが、当時の放牛校長の功労は大きい。
新竹県の内湾には風光明媚な観光ポイントがたくさんある。写真は油羅渓だ。
劉さんは最初の発明品「ロボット自習機」で、30年前に初めての100万元を手にした。
劉興欽さん(右)はハワイの美しい海で洗礼を受け、キリスト教徒になった。(写真:劉興欽さん提供)
小学生の頃、劉さんはしばしば学校を抜け出し、彼にとっての天国とも言える山の洞窟へ逃げ込んだ。その洞窟は今は廟になっている。