夢探しの博物タウンとして
歴史的建造物の再利用は、古い建物に新たに生命を吹き込み、人々の記憶を呼び覚ます。台北の町は百年の間に激変し、古いものは次々と失われ、昔日の風景も忘れ去られつつある。そこで博物館は築百年の機会をとらえ、特別展「夢の博物タウン:現代の夢探しプロジェクト」を企画した。視野を台北の町全体に広げ、台北に点在する45のメモリー・スポットを結び付けることで、台北全体の発展過程を明らかにしようというのだ。
展示場は「幻境」と「迷宮」の二つに分かれ、1階東棟の「幻境」展示ホールでは、映像トンネルに台北の町のさまざまな時代の映像が映し出される。一方、西棟の「迷宮」展示ホールでは、「都市ユートピア」「現代の大通り」「都市遊牧」「知識と理性」「権力の象徴」「工業生産」の6テーマを通し、台北近代化の過程が理解できる。
展覧企画者の一人である林一宏さんは、台北の町の近代化と、45のスポットとの関わりについて詳しく説明してくれた。
1884年に作られた台北城は四方を城壁で囲まれた町だった。その後、日本統治時代に全面的な近代化がなされる。日本人は台北を理想的なユートピアとするべく、インフラ整備を進めた。台北水道ポンプ室(現「自来水博物館」)、総督府台北医院(現「台湾大学病院常徳院区」)などがそれだ。当初は城壁も残す計画だったが、時代の変化のスピードは計画より激しく、鉄道が敷かれることになる。まず西側城壁と西門が撤去され、その跡地は街路樹の繁る大通り(三線道)となり、町の風貌は一変した。
この時以来、台北の町には新公園、三線道、街路樹通りなどの公共スペースが作られていく。また流行先端の場としては百貨店やカフェが、交通の要所として台北駅も登場した。近代化の象徴である教育の場としては台北州立第一中学校(現「建国中学」)、台湾教育会館(現「二二八国家紀念館」)が、産業の場として総督府交通局鉄道部(現「台湾博物館鉄道部」)、総督府専売局及び南門工場(現「台湾博物館南門パーク」)などの遺構が今も残る。日本統治時代の権力の象徴であった官庁、例えば台湾総督府(現「総統府」)や台北州庁(現「監察院」)の古典的な重々しい構えは、当時世界で流行していたモダニズムとは大きく異なり、統治者の意向を表すかのようだ。これらすべてが台北近代化の軌跡を記録する。
45のスポットはいずれも台北の発展においてそれぞれの役割を果たしてきた場所で、実際に訪れて歴史に思いを馳せ、変化を感じ取ることができる。或いは、展覧に合わせて作られたアプリケーションを使えば、45のスポットを組み合わせ、自分だけの「台北タウンメモリー」を作ることもできる。
台北市の中心に建ち、百年の歴史を持つ国立台湾博物館もこうして変化を遂げている。かつては台湾における啓蒙の地として、帝国の輝ける歴史を収蔵し、その発展を見つめてきた。そして今は博物館を囲む二二八公園の柵も取り払われ、新たに市民を歓迎しながら、博物館自らも町へと歩み出て、台湾の物語を語り始めた。台湾を記録し、台湾を語り、台湾人に属する博物館として。
利用されていない古跡を博物館として活用する。台湾博物館では長年放置されていた向かいの土地銀行を自然史展示空間として利用している。(黄仲新撮影)
天井が高い土地銀行展示館には恐竜の化石などが展示され、生命の進化を学ぶことができる。
「夢の博物タウン:現代の夢探しプロジェクト」特別展を企画した林一宏が、台北の都市発展の物語を説明する。
撫台街洋楼は台湾博物館と深い縁がある。ここは日本時代の建設会社・高石組の拠点で、同社は台湾博物館の建設にも携わった。
台北公会堂(今の中山堂)はかつては市民の活動の場で、折衷主義の建築物である。
昔の台北城の城壁は取り壊され、今は城門のみが残っている。写真は忠孝西路と延平南路と博愛路の交差点に建つ台北府北城門。最近、この後ろの忠孝橋の入口道が撤去され、一帯の景観も違うものとなった。
改修中の鉄道部の建物は百年の時を経て、現代性をテーマとする博物館へと生まれ変わろうとしている。