農家の苦労
6月、台東池上では黄金の稲穂が実っていた。魏瑞廷は休日朝5時に起床する。夜露が渇けばコンバインを運転してイネを収穫するのだ。9ヘクタールの田は3日間で収穫が終わり、続いて乾燥、精米加工を行う。
季節は人を待ってくれない。夏至になれば再び種まき、立秋前に田植えとなる。林務局勤務の魏瑞廷は農繁期には毎日4~5時間の睡眠しかとれない。「精神力で続けているようなものです」額から流れる汗をぬぐおうともせず、38歳の魏瑞廷は喘ぎなら言った。「これだから農業は嫌だったのです」
親は農作で忙しく、学校で「家族で出かけた時のこと」を作文に書きなさいと言われても書くことがなかった。「同級生と一緒の時も、あそこでボロボロの服を着て働いているのが自分の父だとは言えませんでした」屏東科技大学森林科卒業後、宜蘭大学森林及自然資源研究所で修士号を取得したが、兵役が終っても故郷に戻りたくないので公務員になろうと大学の図書館に3ヵ月こもって勉強し、合格して林務局勤務となった。
2009年、国軍退除役官兵輔導委員会が有機稲作委託経営の入札を池上で初めて行った。ほかの農家が入札のことをよく知らず、最低制限価格の100万元より低く書いてしまったのに対し、魏瑞廷の父、魏其南は101万元と書いたおかげで16年間の経営権を落札した。こうして10ヘクタールに及ぶ雑草のはびこった土地を、貯蓄と借金で500万元かけて整地し、稲作開始となった。
苦労して1期目の稲を収穫したものの買い手がつかない。あちこち当たったが売れず、コメで名高い池上の有機米を、結局は半値近くで関山に売るしかなかった。しかも続く2期目の収穫には刈入れの人手が見つからない有様だった。
この経験で、父親は300万元でコンバインを購入した。どこにそんなお金があったのか。「農協からですよ!」と魏瑞廷は言う。農協のローンという意味だ。人手不足を補うため、父親はさらに田植機、トラクター、肥料散布機、そして運搬トラック、コンバインを載せる台車と買いそろえ、知らぬ間に借金は3000万元になっていた。
「稼いだ金がすべて農機具に化けてしまうのです。両親はいつもお金のことで言い争っていました」しかも「父は農業はできても販売はできません」と魏瑞廷は苦笑する。そんな父を放っておけず、彼は林務局に異動を願い出て、宜蘭羅東から実家に近い台東関山勤務となり、休日を利用して台北のファーマーズマーケットに米を運んで売った。5年にわたる市場通いの始まりだった。
1回目は60袋のうち6袋しか売れず、面目なさと心配もかけたくないので、すべて売れたと嘘をつき、自分で金を足して両親に渡した。また中興大学博士課程に在籍中だったのも断念し、休日ごとに20箱計400キロのコメを車に載せて台北に通った。一人っ子で実家を放っておけず、田植えには2時に起きて手伝いに行き、7時に大急ぎで着替えて出勤、休みにも施肥を手伝った。台北までの車の往復に疲れ果て、崖から大きな岩でも落ちてくれば一切を終わりにできるのにと思ったり、コメが売れなくて運転中に泣いたこともある。それでも帰宅すれば笑顔の息子を演じた。だが少なくとも借金は少しずつ返していけた。
「大自然を働かせよう」という有機農法。タカの凧を使って、イネをついばむ小鳥が来ないようにする。