スイスの時計工房に匹敵する精密技術
一般の人にとっては、オクマと言っても何のことか分からないだろうが、魚との駆け引きを愛する釣り人にとって、オクマの釣り具は何と言っても夢の逸品である。アメリカの釣り専門ネットサイト「Tackle Tour」において、釣り人の理想の釣り具ブランドの第3位に選出された。また陳水扁前総統に認められて、2001年にエルサルバドルを訪問したときには、当時の大統領への贈答品に選ばれた。イギリスの釣り雑誌「Angler's Mail」は年度の最優秀釣り具に、オクマの人気製品トリオ・スピニング・リールを選出した。
オクマの張良任董事長は、釣り具セットの一番重要なコア技術は、釣り上げるときのリールにあるという。1尾数十キロもあるような大魚が掛かると、そのもがき引っ張る力は想像をはるかに超える。そのため、釣り人はリールのストッパー機能によりロッドを安定させ、力を調整する必要がある。対決の中で、少しずつ魚の体力を消耗させ、最後にようやく引き上げることができるのである。
リールは主に歯車、ベアリング等の精密部品から組み立てられ、防錆、防蝕、乾燥に耐えるなどの基本的要求を満たしながら、使用するときの手の感触や、キャスト、巻上げなどを滑らかに行えなければならないし、さらには魚との対決においてストッパーや摩擦の強度なども精密に計算されていなければならない。
自社ブランドで国際舞台へ
ハイエンドのリールの製造工程はきわめて複雑で、価格は数千から数万台湾元に上る。まさに小型精密機械で、それが宝熊が天下を取るための商品となった。
張良任は1896年に宝熊漁具を設立した。元はスクリーン印刷の会社に勤務していたが、営業の関係で台中地域の釣り具メーカーに出入りして、釣り具に親しむようになった。工場を訪問するたびに、その美しい釣り具に魅せられていき、ついには友人数名と起業し、主力製品をハイエンドのリールに定めた。
設立当初の資本金はわずか100万元と、まさに名実共に零細企業だった。しかも、台中地域には、すでに久陽、崑金、達金など、リールのOEMメーカーが存在していた。張良任も最初は、同業と同じくOEMを目指していたのだが、市場はすでに飽和していて、新会社はその市場を奪うことができなかった。
そこで別に道を求めようと、彼は自社ブランドの確立を目指すことになった。魚を捕まえるのがうまいホッキョクグマをロゴマークに選び、日本語の音であるクマを取ってオクマをブランド名とした。
オクマ・ブランドの開始当時は、自社ブランドとOEMの両建てという、台湾メーカーがよく使う戦略をとった。まず、大手が重視しないニッチ市場に自社ブランド製品を集中的に投入し、コストパフォーマンスの高い製品で釣り人の間に知名度を広げていった。そして、機会があれば大手の釣り具メーカーから受注するチャンスを狙うというものである。
当時、ヨーロッパ最大手の釣り具メーカーであるドイツのDAM社がOEMを依頼してきた。双方の研究開発と設計チームとの協力が順調に進んでいって、宝熊漁具は、DAM社の海外での最大のOEMメーカーとなっていった。全盛期になると、毎年DAM社に輸出する釣り具の総額は600万米ドルに上ったという。
宝熊漁具がDAM社の主力OEM工場となると、サプライチェーンの川下のブランド代理店は、オクマの品質をDAMと同等と考えるようになり、そこからオクマはヨーロッパで知名度を上げ、規模を拡大していった。
しかし、DAM社は宝熊の自社ブランドが大きくなるのを好まず、取引打ち切りをちらつかせるようになった。張良任は、一方ではDAM社を交渉テクニックでなだめつつ、積極的にアメリカや日本の市場開発を進め、受注流失のリスクを防いだのである。
アメリカでの大勝利
1995年に宝熊はシアトルに支店を設立し、正式にアメリカ市場に打って出た。知名度のないオクマは、最初はシマノやダイワなど、早くから進出していた日系メーカーにまったく歯が立たず、受注も限られていた。
1998年になって、張良任は自らアメリカに出向いて指揮をとることにした。そこで気づいたのは、ヨーロッパに比べてアメリカの仕入担当は保守的で、新製品にすぐ飛びつかないということであった。
ブランドの知名度と信頼確立のため、宝熊は今度もコストパフォーマンス戦略でシェア獲得を図った。日本ブランドの7割ほどの価格で、同じくハイエンドのオクマ製品を買えるし、買えば永久に無料修理のサービスがついてくるというものである。
この戦略は大いに当り、仕入担当者がオクマの釣り具を発注しだした。何とか販売チャネルをこじ開けてからは、顧客との信頼関係構築に努力を傾け、少量の受注でもコストを惜しまずに空輸で配送し、販売チャネルに欠品を起こさないようにした。
こういった努力を続けた結果、5年の間にオクマのアメリカでの売上は、当初の20万米ドルから1000万米ドルと50倍に急成長し、日本メーカーを除くと、アメリカの釣り具市場に進出した唯一の外国ブランドとなった。アメリカ市場での栄えある大勝利により、宝熊漁具は、DAM社など国際的な大手と取引できなくなるという危機を乗り越えたのである。
ブランドの位置づけを再構築
2005年になると、オクマのアメリカでの売上は1500万米ドルに上ったが、ブランドの普及は壁に突き当たっていた。日系ブランドが値下げを始めて、オクマのコストパフォーマンス戦略に対抗してきたこともあるし、さらにアメリカのブランドは中国大陸でのOEMを開始し、自社製造販売のオクマに対し、価格的に優位に立っていったのである。こういった状況にあって、宝熊の収益力は下がって行った。
その解決方法を探るためにと、張良任は外部からの支援を求めることにした。2009年には経済部国際貿易局と台湾精品品牌(優秀ブランド)協会が主催したトータルブランド・マネジメント講座に参加し、これを機にブランドのグレードアップを図った。
張良任は、講座において台湾精品品牌協会の王文燦理事長の言葉に教えられたと回想する。当時、王理事長は「ブランド経営に、ハイ・コストパフォーマンスだけをセールス・ポイントとしていると、その会社は行き詰ります」と、指摘したのである。
張良任はその時、これこそ宝熊の現在の問題ではないかと思った。
王理事長の指摘があってから、張良任はブランドの再構築に乗り出した。まず、詳細な市場調査を実施し、ユーザーのオクマ釣り具に対するイメージがダイナミック(活力に満ちたイメージ)というものであることを確認した。その後は、それに基づいて製品の設計、製造、パッケージからマーケティング戦略まで、ダイナミックに合わせて定義づけていった。
宝熊はフィッシング・クラブとフォーラムを運営することで、各地の釣り愛好家との交流の場とし、一方ではプロの釣り師のスポンサーとなってスポーツ・マーケティングを行い、ユーザーの製品へのロイヤルティ、求心力を高めることとした。2011年には大金を投じて、アメリカ人プロアングラーでバス・フィッシングのトーナメント団体FLWのチャンピオン、スコット・マーティンとオクマ釣り具のテスト・プロ契約し、世界の話題を集めたのである。
オクマはこうしてそれまでの安くてお買い得のブランド・イメージを一新することができ、活力あふれるプロ級釣り具にグレードアップし、一度は成長が伸び悩んだアメリカ市場で再び成長を開始し、毎年11から12%の高成長率を上げるようになった。こうして価格競争から抜け出した宝熊は、日本のシマノ、ヤマトなど、技術実力ともに数十年の歴史を有するメーカーと肩を並べ、釣り具ブランドとしては世界の三大ブランドにのし上がった。
現在、台湾には約60万人の釣り人口がいるが、日本には3000万人、アメリカとなると4000万人の人口を擁する。さらには中国大陸でも経済発展につれて、釣り人口はすでに1000万人を突破している。この将来が期待される成長市場において、釣糸を遠くまでキャストして世界で大物を狙うという宝熊の志は一貫していて、今後が期待されるものである。