成功の背後の苦労
ほぼ同じ頃にスラバヤに工場を設けたIDPグループの閻文台董事長とLezen Indonesiaの李博禧董事長は、事業成功のために苦労しつつ、スラバヤの発展にも貢献してきた。
IDPの工場のロビーに入ると、棚にはシャネルやプラダ、グッチなど、有名ブランドの美しい紙袋が展示されている。これらはすべて同社が生産したものだ。ロビーの壁にはインドネシア、中国、ニューヨーク、ロンドンそれぞれの時間に合わせた時計があり、インドネシアから全世界を見渡すという意味が込められている。
インドネシアへ来る前、閻文台は貿易商だったが、ある時、イギリスの顧客の求めに応じて、難度の高くない小ロットのギフト用紙袋を生産し、海外へ輸出し始めた。
当時、新店にあった彼の工場は小さく、従業員も30人ほどだった。大量の人手を必要とする工程だが、台湾ドルが高騰し、人件費が大きな負担になった。そこで近隣諸国に移転先を探すことにした。多くの台湾企業と同様、閻文台も中国大陸やタイを考慮したが、インドネシアの投資環境は相対的に安定していると考え、1991年にスラバヤに工場を設けたのである。
だが、間もなくアジア金融危機が発生した。タイから始まった金融危機はインドネシアにも広がり、インドネシアルピアが大暴落して多くの企業が倒産に追い込まれ、あるいはインドネシア工場をたたんだ。そうした中、輸出をメインとしていたIDPは利益を確保することができた。インドネシア通貨の下落で生産コストが下がり、従業員の給与も月30米ドルに満たなかった。
2000年、IDPはさらに海外展開を進め、大陸の蘇州に工場を設立し、英米にもオフィスを設けた。現在、同社の社員数は800人、インドネシアの3.6ヘクタールの工場では100品目以上を生産している。
一方、Lezen Indonesiaの李博禧董事長が一から立ち上げた工場に入ると、棚にはファッショナブルなカジュアルシューズが並んでいる。
李博禧の物語は多くの台湾人企業家と共通している。インドネシアに来る前は台湾で小さな製靴工場を営んでいた。製品は主に欧米市場に輸出していたが、台湾ドルと人件費の高騰で工場の海外移転を考え始めた。中国大陸や東南アジアを視察して大陸での工場設立を計画している時に天安門事件が起り、友人の勧めでスラバヤへの移転を決めたのだという。
スラバヤの空港から遠からぬ巨大な工場は20年前の完成時には外観が立派過ぎて、地元の人々は高級ホテルだと思い、募集を始めても人が集まらなかった。門に人員募集の貼り紙をして何カ月もたってようやく人が集まったという。
「あの頃の台湾人ビジネスマンは皆一人でやってきて、他人には分からない苦労がたくさんありました。その辛さを皆一人で背負っていたのです。悪い人にひっかかり、現地のパートナーに会社を乗っ取られたり、従業員のストに遭ったり、誰もが同じような経験をしたものですよ」と李博禧は言う。
2001年、李博禧の会社ではある顧客からの注文がキャンセルになり、大きな打撃を受けた。アメリカのゴルフ・ブランドが、911同時多発テロの後、イスラム国家への注文を控える動きに出たのである。李博禧は友人から他の仕事を回してもらい、何とか売上の穴を埋めた。
インドネシア経済が急成長し、ンゴロ工業団地の土地も完売した。