一人の患者もあきらめない
午前の手術を終え、柯賢智医師が私たちに会いに来てくれた。まずスタッフの女性が慈済基金会のフィリピンでの活動のきっかけを話してくれた。最初に赴任した責任者が医療サービスを行ないたいと考えていた時、慈済の委員を務めていた柯医師の母親が手を挙げ、息子が医師だと発言した。「こうして母が私を慈済に寄贈したのです」と柯賢智が言い、笑いを誘う。
彼が無料診療について話してくれた。最初の頃はすべてが困難な中で行なわれ、学校のスペースを借りて診療をしていた。事務机を手術台にし、壁のライトを取り外して手術用の照明にした。彼はスマホを取り出し、当時の、簡単な担架の作り方を示す手描きの図面を見せてくれた。遠くから来た患者に「住んでいるところはどこですか。あなたの住んでいる町まで行って診療しますよ」と尋ね、遥か彼方まで道を尋ねながら大勢で行くこともあったという。
フィリピンでの無料診療は1995年から始まり、高い評価を得て、評判が広まった。これを知った仏教慈済医療財団法人の林俊龍CEOは、その成果をフィリピンまで見に行き「困難に満ちているが、素晴らしい成果を上げている」と称えた。
慈済基金会の無料診療は、台湾から世界各地へと広がっており、これに参加する医師たちは「国際慈済人医界TIMA」を結成している。毎年中秋節には台湾に戻り、花蓮で慈済の創設者である證厳上人とともに祝日を過ごす。これは慈済人医界TIMAの伝統となっている。「皆が帰国して一堂に会し、世界各地での無料診療の経験を分かち合い、切磋琢磨できるのは素晴らしいことです。飛行機で40時間もかかる遠い国からも帰国しています」と林俊龍は語る。
フィリピンでの無料診療においては、想像を超える症例も多い。柯賢智によると、ここではお金がなくて、症状が軽いうちに病院に行けない人が多いため、悪化してからようやく診療を受けるケースが少なくないのである。そのため、地方へ診療に訪れる際には、可能な限り多くの患者を診るようにしている。治療を受ける機会を失ってほしくないからだ。
昨年10月1日、慈済基金会創設者の證厳上人は、慈済フィリピンセンターによる病院設立計画の推進を祝福した。
実は数年前からこの計画はあったのだが、土地の問題で進展していなかったのが、ようやく目途が立ったのである。柯賢智の名刺を見ると、肩書のほかにMD、MBA、MHMと書かれている。MDは医学博士、MBAは経営学修士、MHMというのは病院・医療管理学修士を指す。期せずして、この時のための準備ができていたのである。「これらが役に立つのは、今生ではなく、来世のことだと思っていました」と満足そうに笑う。70歳の彼は、これからチームを率いて新しい病院の設立に取り組むこととなる。「病院が完成したら、定点での医療サービスを安定的に提供できますが、その後も地方での無料診療は継続します。マニラまで来られない人は大勢いるのですから、このサービスは続けていきますよ」と言う。
28年にわたる物語は語り尽くせない。病院が完成したら再びフィリピンを訪れ、物語の続きをうかがいたいものだ。
火山の噴火やコロナ禍に加え、サポート地域で大火災が発生し、住民は「生存」さえ脅かされるようになった。(家扶基金会提供)
家扶基金会は生活物資を支援するだけでなく、サポートする家庭の心のケアにも関心を寄せている。(家扶基金会提供)
家扶基金会は区役所の防災部門からリソースを引き出し、ともに地域の地図を作成し、火災が発生した時にどう対応するか住民に示している。(家扶基金会提供)
家扶基金会は地域のパトロール隊を育成し、消火設備を寄贈するなどして安全な居住環境の構築に努めている。(家扶基金会提供)
慈済基金会眼科センターによる無料診療はすでに17年を数える。専門性の高い医療サービスによって多くの患者が光を取り戻している。
手術を待つ患者の右目の上には、患部の簡単な情報が書いてある。写真を撮っていいかと尋ねると笑顔で応じてくれた。
柯賢智は病院を建てるのは来世のことだと思っていたが、思いがけず願いがかない、70歳でチームを率いて新たな病院を設立することとなった。
医師も看護師も困難な環境で分け隔てなく無料診療を行なってきた。どの患者も治療の機会を失ってはならないという思いからだ。(柯賢智提供)
眼科センターの李偉嵩はタガログ語で患者たちに声をかける。常に忙しい眼科センターだが、明るい雰囲気に包まれている。